立花道雪ってどんな人?雷神と呼ばれていた理由とは!

雷神と呼ばれた男、立花道雪について解説 大友家の家臣
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立花道雪(たちばなどうせつ)

この人物はにまつわる伝説が数多く残されており、非常に興味深い人物です。

大友家の家臣であったこの男。

この記事では立花道雪について紹介したいと思います☻

立花道雪の知名度:★★★★☆☆☆☆☆☆

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立花道雪ってどんな人?雷神と呼ばれていた理由や生涯について!

立花道雪は1513年3月17日、後に北九州6ヶ国を支配するまでに至った大友家の家臣として誕生しました。

しかし、最初から立花を名乗っていたわけではありません。

立花氏は大友氏の家来だったのですが、反乱を起こし、一度滅んでいるのです。

後継ぎがいなくなった立花家に立花道雪こと戸次鑑連(べっきあきつら)が立花氏の後を継ぎ、私たちの良く知る立花道雪と言う名前に変更したというわけです。

1548年、立花道雪が35歳の時、雷に直撃し左足が不自由になった不幸な事故に陥ってしまいます。

しかし、それにもかかわらず戦いでの道雪の強さはすごかったらしくそのことから彼の事を「雷神と呼び恐れられていたとの事。

そんな中、大友家で後継ぎ争いが起きてしまいます。大友家21代当主を大友宗麟にするか、はたまた宗麟の弟にするかについてです。

大友宗麟についてはこちら

宗麟の父親は弟を後継者として選んでいましたが、立花道雪は宗麟の味方に。

この後継ぎ争いで宗麟と道雪は勝利し宗麟は大友家の重臣となるのです。☻

それからというもの道雪は宗麟を全力でアシストし、戦いの際は左足が不自由になっていたため、輿(こし)という人が担ぐ台の上に乗って合戦を指揮しました。

中国地方の毛利からの攻撃も防ぎきったりなどその活躍はかなりのものです。(多々良川の戦い)

こうしてこの道雪の助けもありついに大友家は6ヶ国を支配する北九州の覇者になるのでした。

しかし、大友家の力をその後衰え始めます。薩摩の島津家が力をつけてきたためです。

1578年、ついに島津と大友が戦うことになった際、負ける可能性が高い事を悟った道雪は戦うのを反対していました。

しかし、その道雪の忠告も完全に宗麟は無視し、島津家に大敗した後大友家は衰退の一途をたどることになってしまいます。

それでも宗麟を主君だと思っていた立花道雪は裏切ることなく最後まで大友家で宗麟を支え続けるのでした。

島津家に大敗してから7年後の1585年9月11日

立花道雪は病気によりこの世を去るのでした。(享年73歳)

同じく大友家の家臣として使えていた高橋紹運(たかはしじょううん)の子、立花宗茂を養子として迎えていた道雪。

立花宗茂は道雪が亡くなったのち後を継いでいます。

立花宗茂について

高橋紹運について

雷に直撃したのにもかかわらず、立花道雪が生きていた理由!

先ほど35歳の時に立花道雪に雷が直撃したのにもかかわらず、なぜ左足を失うだけで済んだのか。

その理由は道雪が刀で雷を切って助かったという事だと言い伝えが残っています。

道雪はこの刀を「雷切」(らいきり)と呼びいつも持ち歩いていたんだとか。

この話が定かかどうかはわかりませんが、この「雷切」という刀は現在も残っているので刀があったことは事実なようです(^^;)

 

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