岩屋城(いわやじょう)の戦い
この戦いは1586年に現在でいう福岡県の場所で起きた島津家と大友家の戦いです。
この戦い直前の九州の情勢は島津家が大友宗麟に耳川(みみかわ)の戦い(1578年)にて快勝したにより勢いづいた島津軍がさらに大友家の領地を進行しているという状況です。
島津家はすでに長崎の竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)をうちとっておりあともう少しで九州全土を支配するにまで至ります。
こうして、九州全土を支配するために、最後の相手、大友宗麟を滅ぼすために、今回紹介している岩屋城(福岡県にある城)に島津忠長(しまづただなが)を総大将に大軍を送り込むのです。
その数なんと2~5万。
詳しくはわかっておりませんが、少なくとも2万もの兵力であったことは間違いありません。
対する大友家は島津家と戦う兵力は残っておらず、家臣も多くなくしている状況でした。
島津家の進行を受け続けている大友家は残すところ有能な武将はこの高橋紹運だけとなっており、紹運は、763人の兵と共に岩屋城に立てこもります。
万の兵力に対して、数百の兵力…
島津忠長は降伏を促すのですが、紹運は主君のために、それを断り最後まで戦い抜くことを選びます。
こうして始まったのが岩屋城の戦いです。
島津軍は大量の兵を活かすため、岩屋城の周りを取り囲みます。
紹運はこれに対し近づいてくる兵を鉄砲撃ったり、木や岩を相手に落とし攻撃を仕掛けます。
たった763人…命がけの抵抗でした。
この命がけの抵抗は2週間続き、「戦が長引いては損失が増えてしまう」と考えた島津軍は、多くの戦死者が出るのを覚悟し城への突入を命じ、結果は予想通り多数の戦死者を出したものの突入に成功するのでした。
死を悟った紹運は切腹し岩屋城で戦った763人全員が戦死、島津側も多大な被害を出した壮絶な戦い。
これが岩屋城の戦いです。
勝利:島津忠長(戦力2~5万)VS負:高橋紹運(戦力763人)
岩屋城の戦いの知名度:★★☆☆☆☆☆☆☆☆