大友宗麟!九州6ヶ国を収めたキリシタン大名!

大友宗麟について解説 大名
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大友宗麟(おおともそうりん)

この名は普通に大学受験の歴史の本でも登場するほどの名高い武将かと思います。

おそらくキリシタン大名として有名ですからこれを問う問題が多いのかと思われますね(^^;)

この記事ではそんな大友宗麟の事、主に生涯について紹介していきたいと思います。

大友宗麟の知名度:★★★★★★☆☆☆☆

大友家についてはこちらから

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大友宗麟の生涯 北九州の王者に!

大友宗麟は1530年、大友家20代当主義鑑(よしあき)の長男として生まれます。

最初は宗麟(そうりん)ではなく義鎮(よししげ)と言う名前でした。

生まれてから20年後の1550年、宗麟には二人の弟、晴英(はるふさ)と塩市丸(しおいちまる)がいましたが、父親である義鑑が三男に当主の座を譲ろうとしたことから大友家家臣によって反対され義鑑と三男もろとも暗殺し、大友宗麟が後を継ぐことになります。

それから一年後の1551年、次男の晴英を陶晴賢(すえはるかた)との密約により中国地方西部をしはいしていた大内氏を継がせます。

しかし、1557年のある日の事、大内氏が毛利元就によって滅ぼされてしまうのです。それに対して宗麟も大内氏の旧領であった豊前、筑前(福岡、大分県)の侵略を始めます。

毛利元就とも争うことになったのですが、なにせ中国地方の覇者と言われていた男。

知略がとても長けていた元就の作戦の前に宗麟は苦しめられてしまうのです。

その後数年にわたって対立し続けますが、毛利氏と手を結んでいた佐賀県や長崎県の地域を支配していた竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に1570年今山の戦いで大敗を喫してしまいます。

ここまでは、周りの敵に非常に苦しめられる人生を送りました💦

しかし、ここから一変、1571年に宿敵毛利元就が75歳でこの世を去るのです。

これによって北九州の勢力のほとんどは宗麟に従うようになり、宗麟は九州6ヶ国を支配する大名へと上り詰めまたのです。

1573年、宗麟が43歳の時息子の義統(よしむね)に後を継がせています。

キリスト教王国を夢見ていた大友宗麟、しかし~

少し時代はさかのぼりますが、1551年、宗麟はフランシスコ・ザビエルを招き入れ、キリスト教の布教を許していました。

そんなこんなで宗麟自身もキリスト教を信じるようになり、洗練を受けるほどまでになったのです。

1578年、宗麟が48歳の時、キリスト教王国を作るための第一歩として日向(宮崎県)に侵攻します。

ここで衝突したのが薩摩を支配する島津氏だったのですが、島津氏の見事な作戦により大敗してしまうことに…

この大敗の影響は大きく今まで統治していた6ヶ国内で反乱が次々と起き国力がかなり弱まる結果になってしまいました。

そこから勢いづいた島津家は大友宗麟への攻撃を強め、どんどん侵攻していきます。

1586年、ついに滅亡寸前まで追い込まれた宗麟。宗麟は九州攻めを開始しようとしていた秀吉に助けてもらうべく直接大阪に出向くのです。

その後1587年、助けに応じてはくれたものの、大友宗麟が領地として残っているのはたった豊後の一国だけとなる結果に…

その一年後の1587年5月23日、58歳で病死しによりこの世を去ります。

大友宗麟らがローマへ送った天正遣欧少年使節について

大友宗麟含め、キリスト教を信じるようになった他のキリシタン大名、有馬晴信(ありまはるのぶ)大村純忠(おおむらすみただ)らは協力して日本人をヨーロッパに紹介するために4人の少年たちをヨーロッパに送る、天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)を結成します。

そして少年たちはローマへ向かう事に。1582年の出来事です。

それから8年後の1590年、彼ら少年は無事日本へ帰国してきましたが、宗麟はすでに亡くなっており、秀吉によってキリスト教が禁止されていたという事態に陥ってしまったのでした。

まとめ

大友宗麟は武力こそすごい人物でしたが、知略や人望に関しては平凡でした。

その証拠に毛利元就や島津家にかなり争いで苦しめられていますからね。

6ヶ国も支配する大名になれた理由も家臣が優秀だったからこそです。

そのもっとも優秀であったであろう家臣が立花宗茂(たちばなむねしげ)と言う人物なのですが、詳しくはこちらをご覧になってくださいね↓

立花宗茂は西国一の武将!

 

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