立花宗茂(たちばなむねしげ)
一度は名前を耳にしたことがあるっていう人が多いのではないでしょうか?
特に、「立花」という姓に関しては聞き覚えがあるっていう人は多いかと思います。
今回はこの武将がどのような生涯を送ってどんな生き様だったのか、紹介していきますね!
立花宗茂の知名度:★★★★☆☆☆☆☆☆
立花宗茂とは?最強と言われている理由!
立花宗茂は1567年に、豊後(現在の大分県)を支配していた大友宗麟の家臣である高橋紹運(たかはしじょううん)の子供として誕生しました。
姓が高橋であったのにもかかわらず、立花に変わったのは大友家の中でも重臣と呼べる人物、立花道雪(たちばなどうせつ)の養子になったからです。
この時15歳でした。
一方同時期に九州の情勢は大友家がピンチになりえる状態となっておりました。
薩摩(鹿児島)を支配する島津氏が勢いをつけていたのです。
ついに宗茂が20歳になったころ、島津氏が北上を始め攻撃を仕掛けてきます。
その数なんと5万!!!
残念ながらこの時大友家にはこの勢いをとめるほどの兵力はありませんでした。
大友家の家臣が次々と島津に降伏したり、実の父紹運も自害に追い込まれてしまいましたがしかし、立花宗茂に関しては島津家の猛攻撃を見事の作戦でしのぎきったのです。
20歳でこの活躍ですからね~。現在であれば会社の新人クラスですよ(笑)(^^;)
これが立花宗茂が最強だといわれている理由です。あの豊臣秀吉も立花宗茂の事を「西国一の武将」と褒め称えています。
その後、豊臣秀吉が本州を制覇し、九州攻めを開始するまでは島津氏の攻撃からねばりぬきました。
そんな立花宗茂を秀吉は自分の部下に誘い、立花宗茂は大友家が守れるのであればとこれに応じ、今言った島津氏の攻撃を粘り抜いた功績などから筑後三群(福岡県)の領地を与えられるのです。
こうして宗茂は柳川城という城の城主となるのでした。☻
また、小田原攻めや朝鮮出兵にも参加しており明の大軍相手に勝利していきます。
その後、人生の大きな転機が…
こうして秀吉に使えていた立花宗茂でしたが1598年、宗茂が31歳の時に秀吉がなくなると、その後、徳川家康から「今度は自分の部下にならないか?」とオファーを受けるのです。
二人の天下を揺るがした大物から声がかかっていることからもわかる通り、立花宗茂がいかに最強だったのか想像できますよね~!☻
そんなこんなでオファーを受けていた宗成でしたがこの誘いは断ります。
家康につくという事は関ヶ原の戦いで東軍に属することになり、長い間恩を感じていた豊臣家を裏切ることになってしまうからです。
その後、1600年、関ヶ原の戦いで西軍に属することになった宗茂は、西軍を裏切った武将が立てこもっている大津城を攻撃することになります。
大津城の戦い自体は勝利したものの西軍が負けたことにより宗成は残っている兵と共に自分の本拠地である筑後に逃走。
しばらく東軍と戦い続けましたが、加藤清正の降伏の促しによりついに降伏、領地を全て取り上げられ浪人の身となってしまうのでした。(^^;)
それでも宗成は秀吉と家康に実力を認められた男。1603年に家康によって陸奥棚倉(現在の福島県、立地は消してよくないが)に大名として取り立てられます。
1614年、今回は徳川家についた宗茂。
豊臣家との最後の戦いである大阪冬の陣、1615年の大坂夏の陣、それぞれで武功を上げ元の領土であった筑後に復帰するのでした。
そこから27年後の1642年11月25日、76歳でこの世を去りました。
父より友情を選んだ逸話!
関ヶ原の戦いの時、父親である高梨紹運を殺した張本人、島津義弘(しまづよしひろ)と西軍という形で味方同士になります。
本来ならば、父の仇の相手でしたが宗茂は島津義弘を嫌ったり攻撃したりするどころか西軍が敗れて逃げ帰る際義弘を護衛しながら退却したそうです
このことに対して義弘は宗成に感謝し二人は親友同士になったと伝えられています。
戦国時代にも友情はきちんと存在していたのですね☻