大津城の戦い
この戦いは関ヶ原の直前に起きた戦いの一つです。
1600年の9月7日から9月15日にわたる9日間で行われていました。
西軍の立花宗成(たちばなむねしげ)VS東軍の京極高次(きょうごくたかつぐ)の争いだったのですが、果たしてどのような戦いだったのか?
わかりやすく解説していきますね!
大津城の戦いの知名度:★★☆☆☆☆☆☆☆☆
大津城の戦いとは?
大津城の戦いは先ほども話した通り石田三成率いる東軍と、徳川家康率いる東軍が争う関ヶ原の戦いの直前に起き、東軍が勝った大きな原因となった戦いです。
城の名前の通り、現在でいう滋賀県の大津市で起きました。
結論から言うと、大津城の戦いの勝敗は
勝利:(西軍)立花宗茂
敗北:(東軍)京極高次
でした。
最初は西軍についていた京極高次ですが、三成を裏切って東軍に寝返り大津城に籠城し始めます。
兵力は約3000人ほど。
それに対し放っておくわけにはいかないため石田三成の軍師、島左近(しまさこん)は大津城攻めを提案、こうして西軍に属していた立花宗成が身を乗り出し大津城攻めに向かいます。
兵力は約15000人
籠城戦という事で京極高次には地の利はあるものの兵力が圧倒的に少なかったため結果的に勝利したのはもちろん立花宗成でした。
しかし、京極高次側も必死に抵抗し、西軍が隠れる場所をすべてなくし、城に立てこもって徹底抗戦の構えを示したのです。
大津城天守閣の周りは水で囲まれていたため、立花宗成は容易に攻めることはできない状況。
かといって一刻も早く関ヶ原の戦いの戦地に向かわなければならないため城の周りを取り囲む戦法である兵糧攻めをするわけにもいかないでしょう。
こうして徹底抗戦が続く中、大津城店主に西軍の大砲による攻撃が命中し、場内で混乱が起こります。このことをきっかけに立花宗成が突入し戦局が一気に動きます。
しかし、大津城の戦いが決着したのは会戦から9日後で、これは関ヶ原の戦い当日の出来事でした。
そう、立花宗成は関ヶ原の戦いに間に合わず参加できなかったのです。
この大津城の戦いは西軍立花宗茂の勝利で終わりましたが、立花宗茂が足止めを受け15000の兵力を欠いたまま西軍は東軍とぶつかることに…
結果関ヶ原の戦いは西軍の敗北、大津城の戦いでの勝利は全く無意味なものになってしまいました。
大津城の戦いその後~
京極高次は大津城を落城されたわけではなく、開城という形で降伏をしたため、一命はとりとめ高野山に追放され出家することとなりました。
一方立花宗茂は関ヶ原の戦いへ向かうため軍全を率いて進軍しますが、途中で西軍の壊滅を知り大阪城へ退却します。
抵抗はするも結局改易される結果に…
出家していた京極高次でしたが、徳川家康は敗軍の将にもかかわらず、立花宗茂を大津城にひきつけ関ヶ原の戦いに参加させなかったことを功績としてたたえ、弟の京極高知(たかとも)を高野山へ使者に出し、大名に復帰させさらに若狭一国(現在の福井県)9万2000石を与えるのでした。
まとめ
大津城の戦いに勝利したものの西軍が敗北したことにより改易された立花宗茂。
敗北はしたものの9万2000石を与えられた京極高次。
結果的に勝利したのは京極高次だったという事ですね。
家康が最も恐れていた猛将・立花宗茂を関ヶ原の戦いに参加できないようにしたこの戦いは東軍が勝った大きな原因と一つとなったのでした。