上杉謙信が関東管領となった経緯!なぜこの役職を引き受けたのか?

上杉謙信が関東管領の役職を引き受けた経緯について 上杉家
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関東管領という役職が誕生する秘話から上杉謙信にこの役職がわたるまでの経緯

管領」というのは室町幕府の重要な役職の一つで将軍の補佐を務める重職でした。

なので、京都を本拠地としている室町幕府のはずなのに「関東」とつくのは変だと思いませんか?補佐する役目なのに遠くにいても意味がないではないか!と。

実はこの「関東管領」という役職は室町幕府が正式に作ったものではなく勝手に作られたものなのです。

時代をさかのぼること鎌倉時代、武士が天皇に変わって政治を行う権力を持つようになった時代ですね。当時の中心は関東にありました。そして室町幕府の足利家も関東出身の武家です。

そのため元々武家の本拠地が関東にあったことから「鎌倉府」を設置し室町幕府は足利氏の一族を鎌倉府の長官として関東に派遣、この長官が後に鎌倉公方と勝手に名乗るようになっていくのです。

勝手に名乗るようになった理由は実に単純で、最初は室町幕府を従っていた長官は徐々に「鎌倉は俺のものだ!」という事を聞かなくなります。公方とはつまり将軍と言う意味で、こうして鎌倉の将軍、関東の将軍は自分だという意味で鎌倉公方を自称するのです。

これに対し幕府は1457年「堀越公方」という別の長官を関東に派遣します。こちらを正式な鎌倉公方として最初の公方(鎌倉公方ではややこしくなるため古河公方と呼ばれる)に対抗していきます。ちなみに古河・堀越ともにおかれた場所の地名です。

そして、公方=将軍という事で、それぞれそれらを補佐していた者たちが「それなら俺は管領だ!」と関東管領がここで勝手に誕生したというわけです。

こうした中、関東にある大名が勢力を伸ばしていきます。北条氏です。北条氏が勢力を伸ばしたことでどちらの公方も力が衰えていきます。

まず堀越公方が1495年に北条氏初代当主北条早雲によって追放され滅ぼされます。次に古河公方も衰えていき力をつけていった関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ)に領土を奪われる形となりますがその上杉憲実も北条氏の三代目当主北条氏康に奪われます。

そこで、上杉憲政は外戚として関係があった後の上杉謙信となる長尾家の長尾景虎に援軍を要請します。そして義をつらぬく景虎はこれを承諾、北条討伐に向かうのです。

しかし、結果的に北条討伐は失敗に終わります。北条家の居城・小田原城があまりにも固すぎたために。

結局要請にこたえることは出来ませんでしたが一ミリも自分の利にならないことを引き受けてくれた景虎に対し非常に感謝し名跡と関東管領の役職を譲ろうとします。

最初景虎はこれを断るのですが北条を嫌っている関東の数多くの将からも指示を受けたがためについに1561年景虎は関東管領の役職を引き継ぎ上杉の名前と憲政の「政」の字をもらい新たに上杉政虎と名乗るようになるのでした。

上杉謙信と名乗るのはそれから9年後の1570年の出来事です。

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