武田勝頼の最後は自滅によるものだった!

武田勝頼の最後について 武田家
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武田信玄の四男であり側室・諏訪姫の息子武田勝頼。

史実通り彼は確かに最後織田軍によって攻め滅ぼされますが、その結果を引き起こしたのは実は武田勝頼本人だったのです。つまり武田勝頼の最後は自滅によるもの。織田は最後の一手にちょこっと手を加えただけでした。

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武田勝頼の最後は自滅によるものだった

織田信長は1575年の5月に長篠の戦いで武田勝頼に圧勝し、武田家に大打撃を与えることに成功。結果武田家は織田家と違い兵のほとんどが農民兵であるため長篠の戦いで兵を大きく損失したという事は米をたがやす農民を失ったという事、つまり米が作られにくくなり国力が落ち兵の替えも存在しない…いわば相当な危機的状況にありました。

しかし、織田信長はすぐに武田家に攻めこみ滅ぼそうとはしません。戦は勢いが大事だというのにもかかわらず。

それはなぜか?

理由は武田勝頼の自滅を狙っていたからです。

武田勝頼という男、戦はそれなりにうまい人物として知られていました。しかし信頼を得る(領民や家臣等)事、領国経営が非常に下手でした。

そこで信長は自分が自ら手を下すまでもなく勝手に勝頼から領民が離れていき織田家に寝返る者が続出するだろうと考えます。そしてそれが現実のものとなっていくのです。

武田勝頼は長篠の戦い後から武田家滅亡にかけて、様々な失態を冒します。

武田家の領内には木曽町と呼ばれる山が多く自然が豊かな場所がありました。その土地の木々は質が良く城を作る際に非常に重要で高値で取引されていました。

そこで金になる木々を勝頼は「俺に差し出せ!」と要求します。領主の命令という事でやむなく従った領民たち、しかしその要求も次第にエスカレート、耐えきれなくなった領民は怒り木曽の領民の代表木曾義昌は織田家に味方すると申し出て織田家に寝返ってしまいます。

勝頼は寝返った木曾義昌に対して討伐軍を派遣、しかし織田信忠の援軍を得たことや地の利があったことにより返り討ちにあうのでした。

※この時人質となっていた木曾義昌の70歳の母親、17歳の長女、13歳の嫡男は処刑されています…

このように勝頼の自滅に自滅により武田家を離反するものが増えていった中、信長は武田家の一門・穴山梅雪(あなやばいせつ)声をかけます。こちらに寝返らないか?そうすれば武田家をお前の名前で残してやる!」と。

勝頼の血筋には先ほども話した通り側室・諏訪の姫の血筋とつながっています。対して穴山梅雪は武田信虎(信玄の父)の娘の息子であるから武田家本家の血筋である事、さらに妻は信玄の娘であることから「俺の方が身分が勝頼よりたかいじゃないか!」と勝頼の事をよく思っていなかったのです。

こうして一門衆ですら勝頼を裏切り武田家はさらなる危機的状況に立たされていきます。そして精神的にも追い込まれていきます。

そしてついに致命的な失態を自ら起こしてしまいます。それは新府城放火事件!

躑躅ヶ崎館という今までの居城では織田の侵攻を止めることはできないと考えた勝頼は現在の山梨県韮崎市の場所に巨大な城新府城を築城しようと考えます。

しかし長篠の戦いでの国力低下や相次ぐ離反によりとてもじゃないが城を作ることは通常では不可能、そんな通常では不可能な事を可能にするために勝頼は領民に金を出させ、働かせて、強制的に城を作り上げたのです。これが新府城が作られた簡単な経緯となります。

しかし「巨大な城を作ったのはいいがその城を守る兵力が足りない!」こうして新府城築城は全く無意味なものになり織田に利用されないよう勝頼自ら放火して焼失させてしまいます…

せっかく作った城をすぐ燃やされた領民は怒り殺到!他にも遠江の重要拠点が徳川に攻められているのにもかかわらず救援を一切送らないなどから完全に信頼を失った勝頼でした。

新府城を放火した後、わずかな兵とともに織田軍から逃走しますが脱走兵はさらに相次ぎ重臣からも裏切られる結末となり勝頼は武田家ゆかりの地、天目山に向かいます。

残された家臣とともに織田軍にびっしり包囲された中、勝頼は自害しました。空腹状態でありろくに戦える状態ではなかったとされています。

こうして領民の気持ちをないがしろにした勝頼は自分がまねいた行動により自滅の道に突き進んでいったというわけです。

なお、山梨県の勝沼にある大善寺という寺には勝頼が最後に畳の上寝たとされている場所が残されています。

 

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