松前慶広

松前藩初代藩主、松前慶広について紹介しています。 未分類
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松前慶広は一言でいうと蝦夷地(北海道)を時代の権力者に忠義を尽くし松前藩初代藩主となった人物です。

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松前慶広のプロフィール

誕生日:1548年9月3日
出身地:蝦夷大館館山城(現在の北海道にあった城)
経歴:蝦夷大館館山城の城主
官位:民部少輔、伊豆守、従五位の下
血縁:父親・蛎崎季広(かきざきすえひろ)
母親・河野季通(こうのすえみち)の娘
妻・村上季義の娘
子供・長男松前盛広、次男松前忠弘など
亡くなった年:1616年10月12日

松前慶広ってどんな人?

まずは少しだけ松前家についてお話ししましょう。

松前氏の祖先は武田氏もともと安東(あんどう)氏と言う秋田にあった出羽檜山(でわひやま)城を収めていた家の部下でした。

その後秋田から蝦夷地(北海道)に攻め込みコシャマインの乱(アイヌ民族の反乱)を鎮圧し蠣崎(かきざき)氏と姓を改めます。

それ以降安東氏の大官として代々蝦夷地を収めることになるのです。

さて、ここからは松前慶広の話に移ります。

慶広は1548年に誕生し兄が2人いました。しかし二人とも若くして亡くなってしまい、1582年に家督を継ぐことになります。

それから8年後の1590年、秀吉が権力を握っていた時代に京都の聚楽第に向かい秀吉に拝謁したことにより所領を安堵されることに。秀吉に従う事にはなりますが、これによって安東氏から慶広は自立を遂げるのです。

そして2年後、慶広は蝦夷地という遠い地にいながら秀吉が企てて朝鮮出兵のため九州にまで軍を進めることになります。

当時は飛行機も新幹線もない時代、行くだけでかなりの労力を使いますがこれを秀吉に評価され蝦夷地の支配権と蝦夷地に入った船から税を徴収する権利を公認され慶広は蝦夷地での交易権を一手に握ることになったとの事!

秀吉がなくなってから一年後の1599年、豊臣家の力が弱まり家康の力が強くなってきたことから慶広は徳川家康に近づきます。ここで姓を蠣崎から松前と改め松前慶広と名乗るようになります。

ちなみに「松前」文字は徳川家康の昔の姓である松平の「」そして織田信長の家臣であり家康の部下となった前田利家の姓「」から来ているそうです。おそらく家康に忠義を尽くすという現れなのかもしれませんね。

結果アイヌ交易独占権を認められた慶広は徳川政権の下、初代松前藩の藩主となりました。

その後も北面の警備や経済的貢献により家康に忠義を尽くした慶広、1615年には大坂夏の陣にも参戦し一年後の1616年に亡くなります。

慶広が収めていた蝦夷地に関してなのですが、米を生産することができず石高は0という事になります。しかし経済力は交易によりかなり儲けていたため1万石クラスの大名としての扱いを受けていたそうです!

少し言い方は悪いのかもしれませんが慶広は時代に合わせ権力者を乗り換えていることから生き延びるために最善を尽くしていたことがうかがえますね。

また、詳細は不明ですがアイヌ民族に関する数々の悲話が残されていることから松前慶広はアイヌ民族にあまり良く思われていなかったと思われます。

以上、松前慶広について紹介でした。

 

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