柴田勝家と前田利家の関係について紹介!最終的に刃を向け合う敵同士に!?

前田利家の柴田勝家の関係について紹介しています。 織田家
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この記事では柴田勝家と前田利家の関係について紹介していこうと思います。二人が織田信長の古くからの家臣であったという事は知っているとう前提で話していきますのでその点はご了承くださいね(^^;)

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柴田勝家と前田利家の関係について紹介

柴田勝家と前田利家が大きく関わったのは1576年の事。当時、能登(現在の石川県)の戦国大名の畠山氏の当主がなくなったため次期当主に10歳にもなっていない畠山春王丸が後を継ぐことになります。

しかしその春王丸も能登で流行っていた病にかかり亡くなります。そのため実質畠山氏で最も力の強かった長氏が権力を握る状況でした。

しかしこの状況を他の家臣はよく思わなかったため長氏と対立、上杉謙信に援軍を求めます。これに対して長氏の長連龍は織田信長に援軍を求めます。

こうして援軍要請を受けた信長は柴田勝家を総大将として羽柴秀吉、丹羽長秀の軍合計3万の兵力で北陸に向かわせます。

その時に柴田勝家の与力として軍に参加したのが佐々成政(さっさなりまさ)や不破光治(ふわみつはる)そして前田利家です。

利家は勝家の軍団の一隊の将として指揮官となったわけですね。もっとわかりやすく言えば勝家と利家は部長と課長の関係でしょうか(笑)

こうして北陸に向かった勝家の利家は1577年についに上杉謙信と衝突します。この戦は手取川の戦いというのですが、謙信の策略により勝家は大敗してしまいます。

その後1578年に謙信が病死したことにより北陸の状況は勝家有利となり利家も与力として能登、越中と勢いよく北陸攻めに乗り出すのです。

順調に越中、能登と平定していった勝家らでしたが1582年に織田家で事件が発生、本能寺の変が起きてしまい信長と信長の息子信忠がなくなります。

同年に清洲会議で織田家の後継者を決める為に織田家の重臣であった柴田勝家や羽柴秀吉などが参加。勝家は後継者に信長の三男信孝(のぶたか)を指名しますが秀吉は織田信忠の嫡男・三法師を指名したとの事。

結果、秀吉が明智光秀を破った実績がある事から秀吉の意見が通ることに。

不服に思った勝家は1583年に秀吉打倒の軍を秀吉のいる北近江に向け秀吉との戦、賤ヶ岳の戦いが起こります。

前田利家は与力として長い間勝家と共に過ごしていることや、能登を領地として手にしていたたことによる地理的状況などからそのまま柴田勝家軍として参加します。

戦の状況は最初は奇襲を仕掛けた勝家軍が優勢でした。しかし、状況は一気にひっくり返ります。佐久間盛政という秀吉の城を次々と落としていった武将が調子に乗って勝家の指示を無視して侵攻していったこともありますが、最も大きな理由は前田利家の裏切りです。

利家は秀吉との密談により戦いから脱却し自分の居城越前府中城へと帰ってしまうのです(^^;)

実は前田利家、秀吉とも昔からの親友で利家は秀吉の正室のねねとの結婚を取り次いだ事もあるのだとか。

かといって勝家とも親交がなかったわけではありません。利家は「親父様」と勝家の事を慕っていたそうですから。どちらにせよ結局利家が裏切った理由については今もはっきりしていませんが、二人のどちらかにつくかで迷い板挟みにあっていたことは確かでしょう。はっきりいえることは「勝家を利家は裏切ったという事」です。

こうして賤ヶ岳の戦いは前田利家の裏切りで柴田勝家軍の士気が一気に低下、勝家は敗走し自分の居城北庄城に帰ります。
その帰り道の途中なんと勝家は利家の越前府中城に立ち寄ります。

なんと裏切った利家を一言も非難することなく「これからは秀吉に忠義を尽くせ!!くれぐれも間違った方向に進むなよ!」と助言を贈り従容な様子で北庄城に帰ったそうです。

その後秀吉軍に参加した利家は北庄城攻めの先鋒として繰り出され、北庄城にて勝家は自刃し果てるのでした。

最初は味方同士だった二人が最終的に刃向け合う敵同士となる…

これが、柴田勝家と前田利家が深くかかわってから勝家がなくなるまでの一連の関係です。

 

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