皆さんは豊臣秀吉という人物を知っていますでしょうか?
おそらくこの記事にたどり着いた方であれば、「なぜすごいのかよく分からない…」という方がほとんどかと思います。
そんな方のために今回は豊臣秀吉のすごいところを5選!紹介していきたいと思います!☻
※こちらの記事では他の有名武将のすごい所をまとめてあります。↓
豊臣秀吉のすごいところ5選!
農民から天下人になりあがる
やっぱりなんといっても豊臣秀吉のすごいところといえば農民の身分から日本を支配する天下人までなりあがったことですね。
最初秀吉は織田家に仕える足軽の子供だったのですが、信長のすごさに目をつけ、部下にしてもらうために気に入られるよう努力し信長の部下となったのち、持ち前の機転の良さによって「一隊の将→2万の兵を動かす軍団長→近江(滋賀県)の長浜城主となり一国を持つ主→7~10万近くの兵力を扱う中国攻めの総大将」と信長の元でどんどんどんどん出世していきます。
そして織田信長が本能寺の変で亡くなった後に様々な苦労を重ねついに天下人となるのですよね。
たった一夜で砦を築き上げる?!
秀吉が織田信長に仕え始めた当初の話。
織田信長はこの時尾張という自分の領土の北にある国、斎藤家の美濃(岐阜県)の国を獲得するために何度も斎藤家との続けていました。
しかし、美濃の兵は強く信長は連戦連敗だったのです…しかしそこで活躍したのが今回の主役の豊臣秀吉!!
秀吉は美濃を攻める際の重要な拠点「墨俣」というところにたった一日で砦を築き上げてしまいます。
これにより状況は逆転!斎藤家からは信長に寝返る者が続出し見事信長は美濃をとることに成功したのです。
そしてそれを為すことができたのは秀吉がいたからこそ!
小谷城の戦いでの秀吉の奇襲作戦!
これは1573年!本能寺の変の9年前の出来事です。
浅井長政という人物は当初信長と同盟を組んでいたのですが、1570年に信長を裏切り敵対してしまいます。
そこで信長は数年にかけて長政を攻め続けています。
そして長政との最終決戦である小谷城の戦い!
小谷城とは浅井長政の本拠地で、簡単に言うと山の急斜面の上に立っている城で兵力がたとえ上回っていようと急斜面なので横から侵入することはできません。つまり真正面からしか攻め入る事は出来ないのです。
真正面から力づくで攻め入るとなれば、兵の損失は免れない状況。
しかしここまでまたもや活躍するのが豊臣秀吉!
信長に猿と呼ばれていた秀吉は夜陰に紛れて急斜面を登り横から奇襲をかけて小谷城を攻め落としてしまいます。
この功績によってその後信長からこの浅井領を任されることになりました。
中国大返し!
本能寺の変が起きる直前、秀吉は中国の大名毛利氏と戦をしておりました。
そんなところに「信長様が明智光秀によって討たれた」との伝達が届きます。
それを知った秀吉は直ちに毛利氏と停戦し光秀がいる京都まで180キロ以上の道のりをたった6日間で電光石火のごとく進軍します。
結果準備が整う前に光秀の軍は攻撃を受け秀吉圧倒的有利の中秀吉は光秀との戦に勝利しました。
この際に秀吉が使った戦術は「電撃急襲戦」と呼ばれています。
こちらで電撃急襲戦など戦国時代の戦術についてまとめてあります←
秀吉が発表した政策もすごい!
秀吉は戦だけではなく政策もしっかり行っておりました。☻
1588年に出した刀狩令は武士以外の身分から武器を取り上げ百姓一揆を起こさせないようにし無駄な血が流れないよう、また歯向かうものを減らし豊臣政権の支配力をより強固なものにするために出した政策。
太閤検地は年貢の量を統一し納める米の量を結果的に安定させるためのもの。
人の上に立てるものはやはり政策など政治面も怠らずしっかり統治しているのです。
豊臣秀吉のすごいところまとめ
一言でいうと豊臣秀吉のすごいところってやはり「速さ」じゃないでしょうか。
スピード出世でたった一代で天下人となり信長に仕えていたころも一日で砦を完成させてしまい、小谷城では奇襲で時間のかかる攻城戦をすぐに終わらし本能寺の変後の中国大返しでは6日で180キロを駆け抜け…
と、どれを見ても早いの一言に尽きます。
迅速に行動を起こすってのはやはり大事なのでしょう!