戦国時代の戦略について代表的なものを5つ紹介!

戦国時代の戦術について語ります。 合戦
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戦国時代、領地を広げるためには何も戦だけではありません。

戦わずして領地を広げたり、敵国に攻められないよう戦略を立てられたりもするものです。

そういった戦う前に行われる駆け引きの事を戦略と言います。

今回は戦国時代の代表的戦略をご紹介していこうと思いますね。

実際の戦中の戦術に関してはこちらで詳しく

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戦国時代の戦略!代表的なものを紹介!

1.同盟、婚姻、養子

敵が四方八方にいた場合、2箇所以上からの攻撃を受けたり自分が隣国のどこかを攻撃している間に背後から攻められてしまえば勝敗はともかく確実に不利的状況にたたされてしまいますよね。

そこで、戦国武将は今後戦になるであろう敵に対してその背後の大名と同盟し同時攻撃を受けるのを防いでいたのです。

しかし大名同士の同盟なんてあってないようなもので国の情勢が変化し同盟する必要がなくなれば一方的に破られることもしばしばでした。

いかに両国の信頼関係を築くか、同盟を破らないと証明することが同盟を組むための必須条件!

人質を互いに交換し合う、領土を分割する、金銭の授与など同盟の証となるものはいろいろあるでしょうが、中でも婚姻による血縁関係を築き同盟を組むことが一般的です。

例を挙げると信長の妹・お市の方は信長の上洛の通り道となる浅井家へ嫁ぎ政略結婚させられています。

このように大名の女性は同盟を組むための道具にされていたのですよね💦

また、他家に自分の息子を養子として入れ同盟を組むこともありました。

代表的な例はやはり毛利家でしょう。毛利元就は次男の元春を吉川氏へ、三男の隆景を小早川氏へと養子に入れています。

この場合、実質吉川家も小早川家も毛利家の領土となり戦うことなく領土を広げる最高の手段となりますよね^_^

2.謀略(ぼうりゃく)と情報操作

戦国時代には卑怯などという言葉は存在せずどんな手段を使ってでも人を陥れる謀略がひんぱんにおこなわれていました…

あの信長も跡継ぎ争いの際に最も邪魔になっていた弟を「病にかかった」と偽り自分の元へ呼び出して謀殺しています。

また戦をする際に敵国の情報を知る事は必要不可欠!どこの大名も必死で収集していました。

逆に言えば、わざと嘘の情報を流し相手をかく乱させることも出来ますよね。

これが情報操作戦略です。

よくある例として、敵国の重臣がこちらに寝返ったなどと、嘘の情報を流し、その重臣に対して疑心暗鬼を敵主君に抱かせ同士討ちを狙うというもの。

桶狭間の戦いが始まる前にも織田信長はこの方法を使用しています。

情報操作は敵をかく乱させるだけでなく脅威となる敵の重臣を謀殺できる、いわば一石二鳥の成果を上げることができるのです。

戦以前から戦いは始まっているわけです。神経すり減りそう^^;

3.支城網

戦国時代、戦国大名の両国には本城以外にもありとあらゆる場所に支城が配置され、本城を中心としたネットワークが作られていました。

これを支城網と呼びます。

支城網は様々な役割を果たすのですが、戦において、重要な用地には必ずと言っていいほど支城は建てられていました。

特に、国境の境目には支城が建てられていたとのこと。

自分が兵を率いて国を出ている間、用心しなければならないのはやはりその間に攻められてしまう事ですよね。

そこでもし国境沿いに城が建って入れば侵入を防ぐことができるため、国境沿いの重要な城にはある程度の兵力を置いていたのです。

防衛戦略ですね。

4.経済封鎖

経済封鎖というのは物資(兵糧、水、武器、防具など)を敵国に渡らないようにすることを言います。

経済封鎖をする事によって敵国の軍事力を戦わずして弱めることができるのです。

例えば、武田信玄が北条や今川と同盟を破った際起こった今川・北条家が商人に対し武田家に塩を送ることを禁じたそうです。

武田家の領土は海と面していなかったため非常に苦しんだそうですが上杉謙信が武田家に塩を送り込んで助かりました。(敵に塩を送るで有名ですね)

しかし、戦後時代どこの国も自給自足がほとんどで、あまり経済封鎖は効果的なものではありませんでした。ですので大規模な経済封鎖は行われておりません。

5.名目や権威

戦国大名は見境なしに敵国へ攻めていたわけではなく、何かしらの名目(口実)をつけて攻め込んでいました。名目がないと攻め込むことができなかったのです…

例えば本能寺の変後の明智光秀の討伐戦。秀吉は「主君織田信長の仇打ち」という名目で明智光秀を討っています。

大坂の陣も徳川家康は豊臣家の鐘🔔に書かれた「国家安康」という文字が「家康」を分断し侮辱しているという無理矢理な名目を作って攻撃を仕掛けています。

また、権威を戦略に用いることもありました。

例えば今川義元は三河の守の官位をもらった後に自分が三河を支配するものだとの名目で三河制圧に乗り出しており、武田信玄も信濃守護職を得たのち信濃を支配下におさめているのです。

このように戦う理由づくりも戦略の一つだったのですよ!

少しでも参考になれば幸いです!

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