足利義政が応仁の乱の原因!?彼の行動一つで戦国時代はなかったのかもしれない

応仁の乱がおきた原因は足利義政にある。 合戦
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応仁の乱(おうにんのらん)、皆さんは何が原因でこの乱が起きたのか知っていますでしょうか?

実はタイトルにもある通り足利義政という人物が原因で戦国時代の始まりを告げる応仁の乱を引き起こしてしまったのです。

今回は

足利義政についてわかりやすく、そして彼が原因となった乱、応仁の乱についてみていきましょう!

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足利義政ってどんな人物?

足利義政(あしかがよしまさ)

出身地:京都

生年月日:1436年1月2日

亡くなった年と没年齢:1490年1月7日(55歳没)

義政は室町幕府の6代将軍足利義教(あしかがよしのり)の子供として生まれました。

義政には兄である7代将軍の義勝(よしかつ)がいましたが若くしてなくなってしまったためわずか14歳で当時は日本最高の権力を持っていたであろう8代将軍になるのです。

現在に例えるとやばいですね。中学生が政治を仕切るみたいなもんですから。(^^;)

最初は政治を積極的に動かそうと意欲のあった義政だったんですがある人物がきっかけで徐々にやる気をなくし始めます。

それが義政の妻、日野富子(ひのとみこ)と言う人物です。

日野富子だけではなく、日野家からも政治に口出しをされた義政はやる気をなくしてしまうのでした。

そんな中、応仁の乱(後で詳しく紹介)へと発展してしまいますが義政はこの争いには関与せず、応仁の乱が終わった後、京都の東山(ひがしやま)というところに移り住みます。

知略や芸術に優れた義政はそこで銀閣を建て、花道、茶道などなど文化の発展に没頭しました。

このように悠々と暮らしていましたが、京都は応仁の乱の戦場となり焼け野原と化しました。

結果室町幕府の力は失われることに…

応仁の乱が終息してから13年後の1490年、病気により55歳で義政はこの世を去るのでした。

簡単な義政の周りの家系図↑

足利義政の知名度:★★★★☆☆☆☆☆☆

足利義政が原因で起きた応仁の乱とは

義政には義視(よしみ)という弟がいました。

義政には子供がいなかったのでこの義視が次期将軍となる…はずでした…

しかし、運がいいのか悪いのか、義政に息子が誕生するのです。

それが義尚(よしひさ)

既に後継ぎは決まっている状況でしたが我が子義尚を次期将軍にすべく妻の日野富子は山名宗全(やまなそうぜん)という有力な守護大名に協力を求めます。

義視はもちろんこの状況をよく思うはずもなく、同じく有力な守護大名である細川勝元(ほそかわかつもと)に協力を要請します。

他の守護大名も後継ぎ問題などが理由で宗全派と勝元派に対立し、後継者問題からどんどん発展。

山名宗全をリーダーとする西軍約11万人VS細川勝元東軍約16万人の規模で京都を大舞台とした乱がおきるのです。

これが応仁の乱(おうにんのらん)です

応仁の乱の戦況

応仁の乱は1467年に始まりそれから均衡状態が続きます。

16万人対11万人の大規模な戦いですし、当時は現代みたく原子爆弾や戦車などはありませんからね。

それどころか火縄銃ですらない時代でした。

ですから足軽という剣や槍で戦う武士がほとんどだったので、均衡状態が続いたといえるでしょう。

このような状態が続いたまま争いは11年間も続きます。

京都は焼け野原状態となり幕府は全国の守護大名をまとめる力をこうして失ってしまいます。

各地の守護大名はと言うと、自分の勢力を広げるために、争いを始めます。

これが戦国時代の幕開けとなるのでした。

義政に関しては先ほどもお伝えしました通りこの後継者問題から発展した応仁の乱に一切関与せず移り住むことになります。

まとめ

足利義政の後継ぎ問題で原因となった応仁の乱についてご理解できましたか?

義政が動いていれば、子供が生まれていなければ、ちゃんと後継者を断言していれば、応仁の乱なんて起きていなかったでしょう。

もしかすると、応仁の乱がなかったとなれば、徳川家康が幕府を開いたり、関ヶ原の戦いや下剋上、そもそも戦国時代なんてなかったのかもしれませんね。

その結果、私たちがいきているげんざいも違うものになっていたのかもしれません。悪い方なのか、いい方に転がっていたのかは分かりませんが(^^;)

 

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