平手政秀は幼いころの織田信長を支えた人物として有名ですが、政秀は理由は謎に包まれたまま自害しています。
その自害の理由の一つに政秀の息子、平手久秀が少なからず関わっているというのです。久秀に関してはほとんど資料は残っておりませんが、分かっていることを今回は紹介していきたいと思います。
平手政秀の息子、平手久秀とは?
平手久秀は平手政秀の嫡男で織田信長の家臣。1525年5月22日に誕生しました。(信長は1534年生まれのため、久秀は9歳年上)
名前に関しては勝秀とも呼ばれ、実は、説として「平手政秀の弟なのでは?」とも言われているとの事。
若い頃の信長は数多くの情報が集まることからよく最愛の側室生駒吉乃がいる生駒屋敷に出入りしていたといわれています。
ある日そこで、信長は蜂須賀小六から「平手政秀の息子が裏切ろうとしている」という事を耳にするのです。
久秀は信長の素行の悪さ、たとえ信長の弟が当主になったとしても弟は当主の器ではないと考え織田家を見限ろうと思っておりました。
信長はこれを知り政秀を呼び出し「お前の息子が大事にしている愛馬を俺に献上せよ、話が嘘であれば応じることができるはず」と伝えます。
政秀は直接息子久秀のところへ行くが裏切ろうとしていることが事実であったため責任を負い自害したとの事。
結局、久秀は馬を献上することを拒否したようですが、その後も織田信長に仕え各地で転戦したそうです。
1574年に起きた伊勢長島一揆を鎮圧する際に戦死してしまうのでした。(享年49)