鳥居強右衛門!長篠の戦いを裏で支え長篠城を救った勇敢な武将!

長篠の戦いで見せた鳥居強右衛門の驚くべき行動について解説 徳川家
スポンサーリンク

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)

長篠の戦いにおいて長篠城を救い出した人物です。

この人の事の存在を始めて知った時私は本当に感動し勇敢な武将だと思いましたよ!命をかけてまで、そしてしんどい思いまでしてあそこまでするとは…(^^;)

何の事か今のところわからないかもしれませんが、この鳥居強右衛門がどのような人物なのか、長篠の戦いにおいて彼はどのような行動をとったのか?紹介していきたいと思います!

スポンサーリンク

鳥居強右衛門の生涯

鳥居強右衛門は長篠城主奥平貞昌の家臣。奥平貞昌は元は武田信玄の家臣でしたが、信玄が病死したことをきっかけに武田家に未来はないと読みしばらくして武田家とは縁を切り徳川家康の家臣となります。

鳥居強右衛門は長篠の戦いで有名ですが、それ以外の生涯については詳しくわかっておりません。しかし、生まれ年は1540年、長篠の戦いが起きた1575年で36歳で亡くなったといわれています。

見た目に関しては具足をつけていたが、日焼けしていたため顔は農夫のように見え、くわを槍に持ち帰るような雑兵にしか見えなかったとの事。(^^;)

長篠の戦いでの鳥居強右衛門

長篠の戦いで奥平貞昌が守る長篠城が武田勝頼によって包囲されていしまいます。

勝頼の軍の兵数は約1万5000。対する長篠城内の兵力はたったの500。

長篠城は2つの川がありこれらが天然の要塞となったため5倍の兵力までは落とされないといわれていましたが、この時の兵力差は約30倍。

この圧倒的な兵力差を前に籠城する力は長篠城にはありません。さらに兵糧は底をつき敵に打ち取られるのを待つか、餓死するのを待つしかない状況でした。

場内の500の兵は城主の奥平貞昌が降伏し、自分たちだけは助かることだけを願っておりました。しかし貞昌は織田・徳川軍が助けることを信じて願っていたといいます。

そこで、貞昌は城内部の情勢や、救援を求める為に家康と信長がいる岡崎城へと使者を送ろうとします。しかし、武田勝頼率いる武田軍1万5000が城の周りを取り囲んでいるためとても使者を送りこめる状況ではありませんでした。

そのため誰も使者になろうとはしなかったのです。ですが、そこで使者として希望したのが今回の主役の鳥居強右衛門

鳥居強右衛門は下水を通って武田軍の囲いを通り抜け走って泳いで65キロも離れた岡崎城へとたどり着きたのです。

岡崎城へついた鳥居強右衛門は握り飯を渡され織田・徳川軍が4万の兵で向かっていることを知ります。

65キロの道を走ってきた鳥居強右衛門に対し信長は「休んでいけ」と伝えます。ですが、鳥居強右衛門は長篠城の場内で「いつ主君貞昌が場内で味方に襲われるか分からない、一刻も早くこのことを伝えなければ」と頭の中にずずっと浮かび、ほとんど休むことなく65キロ道を再び走って長篠城へと向かうのです。💦

鳥居強右衛門はこうして長篠城へむかうのですが、長篠城直前で案の定武田軍に捕まってしまいます。

捕えられた鳥居強右衛門に武田勝頼は「長篠城に援軍は来ない、あきらめて貞昌は降伏せよ!と伝えろ」と告げます。そうすれば場内の兵の命は保証し、お前の願いをなんでもかなえてやると。

断れば命はない状況。鳥居強右衛門は仕方なくこれに応じ、その日の夜は武田軍の陣屋で丁重にもてなされます。

後日、鳥居強右衛門は長篠城前へと向います。捕えられながら強右衛門はこう叫びます

もうすぐ4万の大軍が助けに来てくれる!それまでの辛抱でござる!!

と。捕えられていた強右衛門はすぐさま胸を突かれ血を吹き磔にされてしまう結果に。

しかし、その姿を見た場内500の兵は鼓舞され援軍がやってくるまでの2日間、約30倍の兵力相手に攻撃を跳ね返し続けたのです!

こうして鳥居強右衛門の働きによって長篠城は救われ、織田・徳川軍が長篠の戦いでの勝利に大きく貢献したのでした。

鳥居強右衛門まとめ

これが、鳥居強右衛門の命をかけて起こした行動です!強右衛門には妻も子供もおり生きて守らなければならない人が多くいました。それでもこうして確実に処刑される言葉を伝えたのは本当に感動させられましたね。

ちなみに強右衛門の行動は武田家にも称賛されており、中には強右衛門の磔にされた姿の絵を旗印にした人もいるといいます。

現在は磔にされた場所から約500メートル離れた所、愛知県にある鳥居駅という駅があるのですが、これは鳥居強右衛門の名前からとられたものです。

一度見に行かれてはいかがでしょうか☻

 

タイトルとURLをコピーしました