織田信長はたった一代で尾張の小国から美濃、伊勢、大和、近江などなど近畿、中部地方国のほとんどを支配下におさめ戦国武将の中で最も有名な武将と言っても過言ではないでしょう!
そんな織田信長に側室はいたのか?ちょっと気になるところではありますよね(^^;)
正室の濃姫こと帰蝶は大河ドラマやテレビでけっこう頻繁に出てきますから知っている人も多いでしょうが、側室に関してはほぼ全く出てきません…
秀吉は結構プレイボーイで有名ですけど…
さて、織田信長に側室がいたかどうかに関してですが、結論から言うと
側室はいます!!
今回は信長の側室について紹介してきますが、いくら信長とはいえ400年以上も前の出来事で、さらに側室の事となるとほとんど記録は残っていないか在ったとしても曖昧です。(^^;)
その点はご了承くださいね…
織田信長の側室まとめ!
生駒吉乃 信長が正室の濃姫よりも愛していた人物
織田信長の側室として最も有名なのはこの生駒吉乃です。
信長の嫡男、織田信忠は濃姫の息子ではなくこの生駒吉乃の子になります。
また、信雄や徳姫(信長の長女で徳川家康の嫡男の信康の正室)も吉乃の子供です。
生駒吉乃は馬借の生駒家宗の娘で身分的には信長とは釣り合いませんでしたが信長に見初められ側室となります。
※馬借とは平安時代から戦国時代にかけての馬を使って荷物の運搬をする運搬業者の事
お鍋の方
近江の土豪、高畑源十郎の四女がこのお鍋の方。
お鍋の方は始め近江にある八尾山城の城主小倉実房に嫁ぎ二人の子供をもうけましたが夫が戦死したことをきっかけに織田信長の側室となりました。
信長の側室となったお鍋の方は信長の7男「信高」8男「信吉」6女「於振」を生んでいます。
本能寺の変後は豊臣秀吉にまもられ後に秀吉の正室「おね」の側近として豊臣政権ではなかなかの重役として仕えることに。
京都で晩年を過ごしたお鍋の方は慶長17年(1612年)6月25日に亡くなります。
※土豪とは豪族の事である土地において大きな富や勢力を持つ人の事。
坂氏(さかし)
信長の側室となった時期、生年月日は不明ですが、信長との間に信長の三男「信孝」を出産します。
最期は非常に残酷で、信孝が賤ヶ岳の戦いで勝家側についたことから秀吉の人質となっていた坂氏は信孝の娘と共に磔にされてしまうのです…
養観院(ようかんいん)
養観院は生年月日も没年も不明でほとんどが謎に包まれていますが信長の側室となり4男「秀勝」を出産したとの事。
4男は秀吉の養子になりますが、病弱であったため若くして亡くなってしまいます。
土方氏(ひじかたし)
信長の側室となった土方氏は9男「信貞」を出産します。
土方氏に関してはほとんど何もわかっていないですが、父親は土方雄久といい信長はもちろん秀吉や家康にも仕えた人物です。家康に仕えていた時に1万3000石を与えられました。
慈徳院(じとくいん)
慈徳院は信忠の乳母をしていた人物であったことから信長の目に留まり側室となった人物です。
その後、信長との間にのちに豊臣秀吉の側室となる「三の丸殿」を出産します。
生年月日、没年については不明。
原田直子(はらだなおこ)
年齢不詳、生年月日、没年不明の人物で、信長の側室であったとされる人物。
織田家家臣の塙直政(ばんなおまさ)の妹で信長との間に「信正」を出産したとされているのですが、現在信正は信長の子ではない可能性が高いとされています。
織田信長の側室まとめ
このように、織田信長には多くの側室がいたわけですが、信長の子供には母親不明の子が何人もいることから今回紹介した記録に残っている側室以外にも側室はいると考えられます。
また、憶測ですが信長クラスの武将ともなると数か月、いや数週間だけの側室の関係もあったかもしれませんね。
以上、織田信長の側室についての紹介でした!少しでも参考になれば幸いです。