加藤清正ってどんな人?若い頃から秀吉に仕えた猛将!

加藤清正がどんな人だったのかについて紹介 豊臣家
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加藤清正(かとうきよまさ)

加藤清正といえば、熊本城がやはり有名ですよね。☻とても城づくりがうまい事で知られているでしょう。

今回は加藤清正がどんな人だったのかについて紹介していきます。

加藤清正の知名度:★★★★★☆☆☆☆☆

※生涯の多くを家臣として過ごし大名として有名なわけではないが、天下人豊臣秀吉の親類としてある程度大河ドラマでの出演機会が多い事。現在天守が現存している熊本城の築城主であることから知名度はある程度高いと判断しこの評価に設定。

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加藤清正の生涯

秀吉に仕え肥後(熊本県)の主に

加藤清正は1562年6月24日に尾張(あいちけん)に生まれました。

清正は豊臣秀吉の生母の従兄弟の子供なため小さなころから秀吉に仕えることになります。

清正の主君秀吉は織田信長の家臣であったため秀吉が信長から中国攻めを任せられた際清正も一緒に従い同行することに。

その中国攻めで清正は鳥取城攻めの際に武功を上げます。

そして、本格的に清正の名前を高めた理由の一つが信長の死後に起きた合戦、1583年に起きた賤ヶ岳の戦いです。(この時清正21歳)

ここで有名な賤ヶ岳七本槍の一人に数えられるのです。

その後も秀吉と家康の戦いであった小牧・長久手の戦い、九州を統一するための九州攻めなどで活躍した清正。

1587年に肥後(熊本県)を統治していた佐々成政(さっさなりまさ)が統治できなかったことを理由に切腹させられた後、ついに清正は肥後の半国を与えられ、20万石の熊本城主に出世したのです。

熊本で清正は河川工事などの公共事業を行っていたことから領民に慕われていたそうですよ!

ちなみに肥後のもう半国は清正のライバルの小西行長に与えられました。

朝鮮出兵から関ヶ原の戦いでの清正

1592年、朝鮮出兵が起こります。小西行長とはどちらが一番に武功を上げるかで負けてしまうのですが、清正は朝鮮半島の奥地まで攻め込み王子を捉えることに成功し武功を上げることになりました。

その後朝鮮出兵は和平交渉という形で落ち着くのですが、清正は武断派、対する石田三成や小西行長は文治派だったため意見が合わず三成を憎むようになります。

こうして結果により関ヶ原の戦いにおいて清正は、秀吉に恩を感じてはいたものの三成率いる西軍にはつかず、東軍の総大将徳川家康側に参加することになったのです。

関ヶ原の戦いで東軍についた清正は西軍の立花宗茂や小西行長の領地に侵攻します。

立花宗茂についてはこちら

東軍が見事勝利を収めたため小西行長の領地が与えられ清正はついに肥後一国の主となりました。

関ヶ原の戦い以降の清正

関ヶ原の戦い以降幕府を開いた徳川家康と秀吉の後を継いだ豊臣秀頼は1611年に二条城で会見を開きます。

徳川と豊臣の仲が悪くならないように清正も会見に同行します。

見事会見自体は成功したのですが、清正は帰国途中で病気になり熊本城で病死してしまうのです。1611年6月24日(享年50歳)

偶然なのか必然なのか、誕生日と死亡月日が同じなですよね💦

加藤清正の死因について

先ほども言いましたが1611年、京都の二条城で徳川家康と豊臣秀頼は初めて合うことになりました。

清正も秀吉の隣に座り無事会見が終わるのを見守っていたといわれていおります。無事会見が終わった清正は安心し、熊本に帰ったのが途中で病気になり熊本城で亡くなることに…

梅毒にかかっていたと加藤清正の死因の一つとして説が残っていますが他にも徳川家康によって毒殺されたという説もあります。

清正は秀吉の血縁があり、豊臣方に寝返る可能性も否定できない。今後邪魔になりそうな清正を前もって徳川家康が毒殺したという事です。

帰る途中でタイミングよく病気になったのも何かの違和感がありますしね。(^^;)

ちなみに大河ドラマの「真田丸」では家康の忍者「服部半蔵」によって清正は毒を盛られています。

加藤清正の逸話を紹介!

加藤清正の身長は約2メートル?!

加藤清正は身長6尺3寸もある大男として知られています。現代でいう190センチにもなる身長です。

戦国時代の男性の平均身長は157センチと言われていますから加藤清正はそれより33センチも高いという事に!!💦

現在のNBAで戦えちゃうレベルですよね。(笑)

しかし、実際には清正の身長は甲冑のサイズから考慮して167センチくらいだったのではないかとも言われています。

清正の兜に烏帽子(えぼし)の形をした兜があるのですが、それをかぶった状態での身長が190センチだったのかもしれませんね。

 

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