沖田畷の戦いとは?島津家の作戦が功を奏した戦!

沖田畷の戦いについて解説 合戦
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沖田畷(おきたなわて)の戦いは九州を勢力範囲としていた島津家と大友家が領地を巡っての対立により起きた戦いです。

沖田畷の戦いでのそれぞれの兵力

島津家:8000人

竜造寺家:8万人

総大将

島津家、:島津家久、有馬晴信

竜造寺家:龍造寺隆信

結果

島津家の勝利!

この戦いが起きる前、龍造寺隆信は、北九州で一気に勢力を拡大していたため九州の周りの大名は龍造寺家の事を敵対視していました。

同じく北九州の大名大友宗麟からの攻撃は見事に耐えしのいだものの、つぎに待ち構えていたのは南九州の大名島津家だったのです。

1584年、島津家が着々と北へと勢力を伸ばすなか、龍造寺家はそれに味方していた有馬晴信(ありまはるのぶ)への攻撃を開始するため沖田畷に攻め込みます。

有馬軍に島津軍率いる家久は合流し、龍造寺隆信を迎え討ちます。その兵力ざっと約8000。

対する竜造寺軍は兵力約6万!!

兵力だけ見ると全く太刀打ちできないようには見えますが、家久は地形を利用し龍造寺軍に勝利します。

沖田畷の土地はじめじめしており身動きがとりづらい場所でした。そのため龍造寺軍は大軍を生かすことができなかったのです。

さらに家久は龍造寺軍に攻撃を仕掛けわざと逃げたように見せかけます。身動きがさらに取りにくくなる沼地の細い道に大軍を誘い込むためです。

まんまと罠にはまった龍造寺軍は逃げられない場所で取り囲まれ総攻撃をくらい総崩れに…島津・有馬軍は大勝利を収めました。

この沖田畷の戦いで龍造寺隆信は馬に乗れないほど太っていたたといわれ何人かにかつがれて移動する台に乗って移動する輿(こし)にのっていたといわれており、敗走する際に家臣たちはかつがずに逃げたため隆信はあっさりと討ち取られてしまいます。(^^;)

沖田畷の戦いの知名度:★★★☆☆☆☆☆☆☆

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沖田畷の戦いの場所はどこ?

沖田畷の戦いは現在の長崎県の島原市で起きた戦いです。

ちなみにあの有名な島原の乱は島原市の南にある南島原市で発生した乱ですね。

島原市には島原温泉という有明海を一望しながら様々な湯を楽しむことができる場所や、松倉重政という人物が築城した島原城、100メートルもある水路に飼われている1500匹のコイなどの名スポットがあるようですよ!

沖田畷の戦いでの総大将について簡単に紹介

島津家久

島津家久は島津家支えた4兄弟の末っ子に当たる人物。家久はその中で最も知略に優れていた武将として知られています。戦略など作戦を考えるのが得意でした。

秀吉の九州攻めの際、秀吉に対抗しますが兄が降伏したため家久も降伏。その年のうちになくなります。

家久について詳しくはこちら

有馬晴信

有馬晴信はキリシタン大名として最も有名でしょう。大友宗麟、大村純忠らと共に日本人の少年4人(天正遣欧少年使節)をローマに送り込んだ人物ですね。

龍造寺隆信

龍造寺隆信は佐賀県を本拠地に置く北九州の戦国大名。最初は勢力が小さく当時大大名であった大内氏、大友氏などに従いますが、従っているなかでどんどんと勢力を広げていきます。

こうして領地を広げていった結果、大友宗麟などの周りの勢力の怒りを買い今回紹介している沖田畷で戦死してしまいます…

 

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