黒田官兵衛!秀吉の軍師であったが頭の中で天下人を夢見ていた男!

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黒田官兵衛(くろだかんべえ)

かなり有名ですよね!大河ドラマの主役にもなったりしていますし。

今回はそんな黒田官兵衛について知らない方のために、いったいどんな人物だったのか?紹介していきますね☻

黒田官兵衛の知名度:★★★★★★★★☆☆

※大河ドラマにもなって世間での認知度がかなり高い事。しかし、織田信長や豊臣秀吉といった武将と比べると知名度という点では劣るためこの評価に。

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黒田官兵衛の生涯

秀吉の軍師時代

黒田官兵衛は秀吉の軍師として有名ではありますが、最初から秀吉の部下として生まれたわけではなく、播磨(兵庫県)の小寺家の家臣である小寺職高(もとたか)の子供として1546年に誕生しました。

ちなみに、官兵衛と言うのは通称で、本当の名前は孝高(よしたか)です。

父の職高は小寺家の姫路城代に当たる人物でした。

小寺家に生まれた官兵衛は最初は信長や秀吉とは全く接点はありませんでしたが、信長が天下取りへと一気に勢力を拡大したことをきっかけに父親に早い段階で信長につくように勧め、信長に近づきます。

官兵衛は知略に優れていたため、それを信長はいち早く見抜き、秀吉に軍師にさせたことから秀吉の軍師として活躍するようになったのです。

そして1577年、姫路城を居城としていた官兵衛は、中国攻めのために播磨へ来た秀吉を迎え入れます。

しかし、1578年には黒田官兵衛に不幸が訪れます。摂津(せっつ)を支配していた荒木村重(あらきむらしげ)という人物が、信長を裏切り中国地方の毛利側に寝返ってしまいます。

そのことを説得するために官兵衛が村重の居城、有岡(ありおか)城に向かうのですが、そこで官兵衛は説得に失敗し逆に捕まり牢獄に一年間も閉じ込められてしまうのです。

一年後、無事救出されはしましたが、足が不自由になり閉じ込められている間に信長に裏切られたと勘違いされ息子の長政が処刑されそうになるなどの不幸の連続だったのでした。

長政についてはこちら

救出された後の官兵衛のぼろぼろの姿を見た周りの人物はこのことをきっかけに官兵衛を信頼するようになったため悪いことばかりではなかったようですが…

1582年、信長が本能寺で自害したことを知った官兵衛は秀吉に「天下取りのチャンス」とつぶやき秀吉の天下統一への道を作っていきます。

そこからは、小田原攻め、朝鮮出兵などなど多くの戦で作戦を立て武功を上げた官兵衛は豊前(福岡県、大分県)を与えらえれ中津(なかつ)城を築くことに。

1589年に息子長政に後を継がせましたが秀吉がなくなるまではそばで軍師として活躍する官兵衛でした。☻

関ヶ原の戦いでの黒田官兵衛、官兵衛は天下統一を狙っていた?!

1598年、秀吉がなくなってから2年後、関ヶ原の戦いが起きた時、黒田官兵衛は長政と共に徳川家康率いる東軍に属し、家康が関ヶ原の戦いで戦いっている間、黒田官兵衛は九州にいる西軍と戦い勢力を広げていきます。

徳川家康と石田三成が関ヶ原で戦っている間、自身は九州全土を支配して勝ったほうと戦おうとしていたといわれています。

つまり、官兵衛は、頭の中では西軍、東軍、どちらにも付く気はなく自分が天下を統一しようと考えていたんですよね💦

しかし、関ヶ原の戦いが一日で終わってしまったため官兵衛は特に活躍することはなく戦いを終えるのです。

結局徳川家康に従う形となりました。

そして4年後の1604年3月20日、病にてなくなります。(享年59歳)

 

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