後藤又兵衛!真田幸村らとともに大坂の陣で活躍した天下の豪勇

後藤又兵衛について解説 豊臣家
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後藤又兵衛(ごとうまたべえ)

大坂の陣での活躍で、その名を現在まで轟かせている人物ですね。

今回は、この後藤又兵衛について紹介していきます。

後藤又兵衛の知名度:★★★★☆☆☆☆☆☆

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後藤又兵衛の生涯

黒田長政との出会い

生年月日は不明ですが、後藤又兵衛は、播磨(兵庫県)を支配していた大名、別所家の家来の子供として生まれました。

又兵衛は通称で本当の名前は基次(もとつぐ)。

1580年、仕えていた別所家が織田信長によって滅ぼされると次は父親と一緒に小寺(おでら)氏を頼ることになります。しかし、父親は残念なことにその後急死してしまいます。

そして、小寺氏の家臣だったもう一人の有名な武将と言うのが黒田官兵衛でした。

黒田官兵衛は小さかった又兵衛を育て上げ、又兵衛を立派な武将に成長させます。

たまに、離れることもあったそうですが、又兵衛は官兵衛の息子、長政に仕えることになります。

こうして二人は出合ったのです。

長政について

又兵衛は、官兵衛、長政と共に秀吉の戦(九州攻め、朝鮮出兵など)に参戦し、数々の武功を上げることに成功。

1600年には長政が東軍に参戦したため又兵衛も東軍に参加。ここでも石田三成と戦って武功を上げた又兵衛は長政が家康から筑前の地を与えられた後、一城の主、大熊(おおくま)城主に任命されるのでした。(一万6000石)

長政と喧嘩し追放される又兵衛

一城の主となり地位を上げた又兵衛でしたがしかし、主の長政と仲が悪くなってしまいます。

長政に対して何度も嫌味を言ったことや、他国との付き合いを禁止していたのにもかかわらずそれを又兵衛が無視していたのが原因です。

そのため長政によって又兵衛は1606年に黒田家を追放され浪人の身に…

つぎに向かった先は池田輝政(いけだてるまさ)の元ですが、仕えるという話や、世話になろうとしても、長政の陰湿な嫌がらせで邪魔をされ士官の話は消え浪人として結局過ごすことになります。💦

大坂の陣での又兵衛

1614年、大坂冬の陣が起きようとていた時、又兵衛は大阪城に入って豊臣秀頼に味方します。

浪人生活をしていたころに息子が秀頼にお世話になったからです。

大坂冬の陣では真田幸村らと浪人5人衆として活躍します。又兵衛は佐竹軍を相手に味方を助ける為に突撃し、自分は負傷しながらも佐竹義宣(よしのぶ)を撃退するのでした。(今福の戦い

1615年の大坂夏の陣では伊達軍と交戦します。伊達相手にも奮迅する又兵衛でしたが道明寺での戦いで、鉄砲に打たれて戦死してしまうのでした。

 

 

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