黒田長政!竹中半兵衛にピンチを助けられた黒田官兵衛の息子!

黒田長政について紹介 豊臣家
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黒田長政(くろだながまさ)

皆さんが良く知る黒田官兵衛の長男に当たる人物ですね。

今回はこの黒田長政がどのような人物だったのか?見ていきましょう!

黒田長政の知名度:★★★★☆☆☆☆☆☆

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黒田長政の生涯

黒田長政は1568年12月3日、播磨(兵庫県)で軍師、黒田官兵衛の長男として誕生しました。

それから9年後の1577年、当時は信長の部下であった羽柴秀吉が播磨に来た時に人質として生活を送るようになります。

しかし、その一年後に人質としていきなり処刑されそうになる事態に陥ってしまうのです。

それは、信長の勘違いによって起きた事態でした。

父親である官兵衛が、信長を裏切った荒木村重(あらきむらしげ)という人物を説得しに行ったのですが、説得しに行った官兵衛は村重によって捕まってしまい約1年もの間牢獄に閉じ込められる結果に…

そのため信長は官兵衛が村重の裏切りに加担したと思い人質である黒田長政は処刑されるピンチに陥りました。

しかし、このピンチを救ってくれた人物がいます。それは秀吉の軍師竹中半兵衛。

竹中半兵衛は、長政を助ける為に「既に長政の処刑は済ませた」といいピンチを救います。

こうしてピンチを免れた長政は1582年から官兵衛と共に戦に参加するように。中国攻めに参加し毛利家と対峙します。

本能寺の変後に起きた賤ヶ岳の戦いで、秀吉軍に従軍した長政は、柴田勝家軍と激突し功績をあげ領地をもらうことに。

それ以降も九州攻めなど秀吉の家来として戦に参加していった長政は1589年に父官兵衛の後を継ぎ黒田家の当主になります。

1592年には朝鮮出兵の名を受け海を渡り奮戦するのですがそれを仕切っていた石田三成とは仲が悪かったようで、以後起きる関ヶ原の戦いでは秀吉に恩を感じていたものの、家康率いる東軍に属します。

関ヶ原の戦い以降の長政

三成と仲が悪かった長政は家康に近づくために1600年、家康の養女を妻に迎え入れます。こうして長政は関ヶ原の戦いにおいて東軍に参加するのです。

そして、長政は関ヶ原の戦いにおいて小早川秀秋を寝返らす工作により功績をあげ東軍を勝利へと導きます。

この大きな活躍によって長政は筑前(福岡県)一国を与えられるほどの優秀な武将だったのですが、父親と違い長政には天下取りの野望がなかったため父、官兵衛を残念がらせたとの事。

そして、戦いから6年後に重臣に後藤又兵衛(大阪の陣で真田幸村らと共に秀頼軍として戦い抜いた人物)との仲が悪くなったことから追放してしまいます。

1614年、大坂冬の陣では長政は江戸城に置かれてしまい参加することができませんでした。それがよほど不服だったのか、夏の陣にて少ない兵力ではあるものの徳川方として参陣します。

1623年8月4日、病にて53歳で生涯を終えます。

黒田長政の逸話!

島左近を銃で撃った!?

石田三成の参謀として活躍していた島左近(しまさこん)。

長政はにくむ石田三成の陣に攻め寄せるのですが、そこには島左近がおり彼の働きに大苦戦を強いられます。

そこで、長政は島左近めがけて鉄砲隊に狙撃を指示。

みごとに命中させたのです。

 

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