島津義弘!関ヶ原で追っ手を振り払い島津の武名を轟かせた四兄弟の2男!

島津義弘について解説! 大名
スポンサーリンク

島津義弘(しまづよしひろ)

島津四兄弟の中ではおそらくですが一番有名なのではないでしょうか?

中でも関ヶ原の戦いにおいての彼の行動は島津家の存続に大きく関わることだったでしょう。

今回は、この島津義弘について紹介していきたいと思います!

島津義弘の知名度:★★★★★★☆☆☆☆

スポンサーリンク

島津義弘の生涯!

島津義弘は1535年7月23日、他の兄弟と同じく薩摩の地で次男として誕生しました。

1554年、義弘が19歳の時に岩剣城(いわつるぎじょう)での戦いで見事初陣を飾りそのまま岩剣城を任されることに。

その後は兄、義久(よしひさ)を助けながら大隅攻略に貢献するようしていきます。

そして、日向(現在の宮崎県)を攻略する際にその最前線にある城、飯野(いいの)城主を任されることに。

こうして1572年、日向を支配していた伊東氏とついに衝突することに。(木崎原の戦い)

この戦いで義弘は侵略に大きく貢献します。なんと、たった300の兵で10倍もある相手軍を打ち破ったのです。

義弘の活躍した合戦の中でも1.2をあらそうものだといってもいいでしょう。☻

伊東家は義弘によって日向を追い出される結果となり島津ともう一つの九州の大勢力、大友家を頼ることになります。

1578年には大友家との大きな戦、(耳川の戦い)が起きますが、義弘はこの戦いでも武功を上げるのです。

こうした活躍は兄、義久からも褒め称えられ、「お前の力一つで島津家はここまで繁栄できた」と言われるほどだったのです。

日向攻略後、義弘は主に日向を拠点に活躍することに。☻

秀吉の元でも大活躍の島津義弘!

義弘の力もあり九州統一直前まで来た島津家でしたが残念ながら1587年に秀吉によって九州攻めにあい、兄の義久が降伏したことから義弘もそれに従います。

義弘はこの時一度秀吉の弟、秀長軍に根城坂(ねじろざか)で戦いに挑んではいますが敗北する結果に陥っています。

それ以降、義弘は秀吉に従う事となり、徐々に秀吉のために働こうと意識し始めるのです。(^^;)

豊臣政権下での義弘の活躍といえば、やはり朝鮮出兵。

朝鮮出兵で義弘は病気の兄に変わって参陣することになりますが、準備で手間取ってしまうだけではなく、息子を亡くしてしまいます。

最初はあたふたしていた義弘でしたが1598年に酒川(サチョン)の戦いで明の大軍を見事打ち破り島津の名を全国の大名に轟かせるのでした!!

関ヶ原の戦いの戦いで義弘が見せた行動とは?

1600年に起きた関ヶ原の戦い。

島津義弘は東軍に参加したかったようですが、断られてしまい西軍に属することになります。

皆も知る通り、関ヶ原の戦いでは東軍が勝利し西軍が敗北する結果になったため、義弘も敗戦の将となってしまいます。(^^;)

さらに敵軍に囲まれ退却の退路を阻まれしまう事に…

もはやこれまで・・・

死を悟った義弘は一度は切腹をしようとしました…しかし、おいにあたる豊久(とよひさ)によって説得を受けた義弘は敵軍の中央に突撃して中央突破を図るのです。

見事突破に成功したことから家康はこの行動に義弘を恐れ、義弘は粘り強い交渉も相まって西軍でありながら少しも領地を減らされることはなかったのでした。

こうして領地を守り抜いた義弘は1619年7月21日、85歳で亡くなります。

この行動がもしなければ…と考えるとおそらく島津が存続してなかったことからして薩摩と長州の同盟が組まれることもなく。江戸幕府が討伐されることもなく、西郷隆盛や坂本龍馬といった人物も歴史の教科書に登場していなかったかもしれませんね。

この義弘の行動が今後の歴史に大きく影響を与えていると考えると歴史って興味深くありませんか?(笑)

 

タイトルとURLをコピーしました